祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり娑羅双樹の花の色盛者必衰の理を顕す奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し猛き者もつひには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ遠く異朝を訪へば秦の趙高漢の 王莽梁の周伊唐の禄山これらは皆旧主先皇の政にも従はず楽しみを極め諫めをも思ひ入れず天下の乱 れん事を悟らずして民間の憂ふる所を知らざりしかば久しからずして亡じにし者共なり近く本朝を窺 ふに承平の将門天慶の純友康和の義親平治の信頼これらは猛き心も奢れる事も皆とりどりにこそあり しか間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の有様伝へ承るこそ心も詞も及ばれねそ の先祖を尋ぬれば桓武天皇第五の皇子一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫刑部卿忠盛朝臣 の嫡男なりかの親王の御子高視王無官無位にして失せ給ひぬその御子高望王の時初めて平の姓を賜は つて上総介に成り給ひしより忽ちに王氏を出でて人臣に列なるその子鎮守府将軍義茂後には国香と改 む国香より正盛に至るまで六代は諸国の受領たりしかども殿上の仙籍をば未だ許されず然るに忠盛朝 臣未だ備前守たりし時鳥羽院の御願得長寿院を造進して三十三間の御堂を建て一千一体の御仏を据ゑ 奉らる供養は天承元年三月十三日なり勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける折節但馬国の空きた りけるをぞ賜はりける上皇御感のあまりに内の昇殿を許さる忠盛三十六にて初めて昇殿す雲の上人こ れを嫉み憤り同じき年の十一月二十三日五節豊の明の節会の夜忠盛を闇討にせんとぞ議せられける忠 盛この由を伝へ聞きて我右弼の身にあらず武勇の家に生れて今不慮の恥に遇はん事家の為身の為心憂 かるべし詮ずるところ身を全うして君に仕へ奉れといふ本文ありとて予て用意を致す参内の初めより 大なる鞘巻を用意し束帯の下にしどけなげに差し火の仄暗き方に向かつてやはらこの刀を抜き出でて 鬢に引き当てられたりけるが余所よりは氷などのやうにぞ見えたりける諸人目を澄ましけりまた忠盛 の郎等元は一門たりし木工助平貞光が孫新四郎太夫家房が子に左兵衛尉家貞といふ者あり薄青の狩衣 の下に萌黄威の腹巻を着柄弦袋付けたる太刀脇挟んで殿上の小庭に畏つてぞ候ひける貫首以下怪しみ をなして空柱より内鈴の綱の辺に布衣の者の候ふは何者ぞ狼藉なり疾う疾う罷り出でよと六位を以て 云はせられたりければ家貞畏つて申しけるは相伝の主備前守殿今夜闇討にせられ給ふべき由伝へ承つ てそれならんやうを見んとてかくて候ふなりえこそ出でまじう候へとて畏つてぞ候ひけるこれらを由 なしとや思はれけんその夜の闇討なかりけり忠盛また御前の召しに舞はれけるに人々拍子を変へて伊 勢へいじはすがめなりけりとぞ囃されけるかけまくも忝くこの人々は柏原天皇の御末とは申しながら 中比は都の住まひも疎々しく地下にのみ振舞ひなつて伊勢国に住国深かりしかばその国の器に言寄せ て伊勢平氏とぞ囃されけるその上忠盛目の眇まれたりける故にこそかやうには囃されけるなれ忠盛何 とすべきやうもなくして御遊も未だ終らざる前に密かに罷り出でらるとて紫宸殿の御後にしてかたへ の殿上人の見られける所にて主殿司を召して預け置きてぞ出でられける家貞待ち受け奉りてさていか が候ひつると申されければかくとも云はまほしう思はれけれども云ひつるほどならばやがて殿上まで も斬り上らんずる者の面魂にてある間別の事なしとぞ答へられける五節には白薄様濃染紙の紙巻上の 筆巴書いたる筆の軸など様々かやうに面白き事をのみこそ歌ひ舞はるるに中比太宰権帥季仲卿といふ 人ありけりあまりに色の黒かりければ見る人黒帥とぞ申しけるその人未だ蔵人頭たりし時五節に舞は れけるに人々拍子を変へてあなくろくろ黒き頭かないかなる人の漆塗りけんとぞ囃されけるまた花山 院前太政大臣忠雅公未だ十歳と申しし時父中納言忠宗卿に後れ給ひて孤子にておはせしを故中御門藤 中納言家成卿未だ播磨守にておはしけるが聟に取りて華やかにもてなされければこれも五節には播磨 の米は木賊か椋の葉か人の綺羅を磨くはとぞ囃されける上古にはかやうにありしかども事出で来ず末 代いかがあらんずらん覚束なしとぞ人々申し合はれける案の如く五節果てにしかば殿上人一同に訴へ 申されけるはそれ雄剣を帯して公宴に列し兵仗を賜はりて宮中を出入りするは皆格式の礼を守る綸命 由ある先規なり然るを忠盛朝臣或いは相伝の郎従と号して布衣の兵を殿上の小庭に召し置き或いは腰 の刀を横へ差いて節会の座に列なる両条稀代未だ聞かざる狼藉なり事既に重畳せり罪科尤も遁れ難し 早く殿上の御札を削りて欠官停任せらるべき由諸卿一同に訴へ申されければ上皇大きに驚かせ給ひて 忠盛を召して御尋ねあり陳じ申されけるはまづ郎従小庭に伺候の由全く覚悟仕らず但し近日人々相巧 まるる旨子細あるかの間年来の家人事を伝へ聞くかによつてその恥を助けんが為に忠盛には知らせず して密かに参候の条力及ばざる次第なりもしその咎あるべくばかの身を召し進ずべきか次に刀の事は 主殿司に預け置き候ひ畢んぬ召し出だされ刀の実否に付きて咎の左右あるべきかと申すこの儀尤も然 るべしとてかの刀を召し出でて叡覧あるに上は鞘巻の黒う塗つたりけるが中は木刀に銀薄をぞ押した りける当座の恥辱を遁れんが為に刀を帯する由顕すといへども後日の訴訟を存じて木刀を帯したる用 意のほどこそ神妙なれ弓箭に携らんほどの者の謀は尤もかうこそあらまほしけれ予てはまた郎従小庭 に伺候の由且つは武士の郎等の習ひなり忠盛が咎にはあらずとて却つて叡感に預かりし上は敢へて罪 科の沙汰はなかりけりその子共は皆諸衛佐に成りて昇殿せしに殿上の交はりを人嫌ふに及ばずある時 忠盛備前国より都へ上りたりけるに鳥羽院御前へ召して明石浦はいかにと仰せければ忠盛有明の月も あかしの浦風に浪ばかりこそよるとみえしかと申されたりければ斜めならずに御感ありてやがてこの 歌をば金葉集にぞ入れられける忠盛また仙洞に最愛の女房を持つて通はれけるがある時おはしたりけ るにこの女房の局に端に月出だしたる扇を取り忘れて出でられたりければかたへの女房達これは何処 よりの月影ぞや出所覚束なしなど笑ひ合はれければかの女房雲井よりただもりきたる月なれば朧げに てはいはじとぞおもふと詠みたりければいとど浅からずぞ思はれける薩摩守忠度の母これなり似るを 友とかやの風情に忠盛も好いたりければこの女房も優なりけりかくて忠盛刑部卿に成つて仁平三年正 月十五日歳五十八にて失せ給ひしかば清盛嫡男たるによつてその跡を継ぐ保元元年七月に宇治の左府 世を乱り給ひし時安芸守とて御方にて勲功ありしかば播磨守に遷つて同じき三年太宰大弐に成る次に 平治元年十二月信頼義朝が謀反の時も御方にて賊徒を討ち平らげたりしかば勲功一つにあらず恩賞こ れ重かるべしとて次の年正三位に叙せられうち続き宰相衛府督検非違使別当中納言大納言に上がつて 剰へ丞相の位に至り左右を歴ずして内大臣より太政大臣従一位に上がる大将にあらねども兵仗を賜は つて随身を召し具す牛車輦車の宣旨を蒙り乗りながら宮中を出入す偏に執政の臣の如し太政大臣は一 人に師範して四海に儀刑せり国を治め道を論じ陰陽を和らげ治むその人にあらずは即ち欠けよと云へ りされば則ち欠官とも名付けられたりその人ならでは穢すまじき官なりとも入道相国一天四海を掌の 内に握り給ひし上は子細に及ばず抑も平家かやうに繁昌する事は熊野権現の御利生とぞ聞えしその故 は清盛未だ安芸守たりし時伊勢国阿野津より舟にて熊野へ参られけるに大きなる鱸の舟に躍り入りた りけるを先達申しけるはこれはめでたき御事かな参るべしと申しければ入道相国さしも十戒を保つて 精進潔斎の道なれども昔周武王の舟にこそ白魚は躍り入りたなれとて調味して我が身食ひ家子郎等共 にも食はせらるその故にや下向の後うち続きて吉事のみ多かりけり我が身太政大臣に至り子孫の官も 龍の雲に昇るよりはなほ速やかなり九代の先蹤を越え給ふこそめでたけれかくて清盛仁安三年十一月 十一日歳五十一にて病に冒され存命の為に忽ちに出家入道す法名は浄海とこそ付き給へその故にや宿 病立ち所に癒えて天命を全うす出家の後も英雄はなほ尽きずとぞ見えし凡人の思ひつき奉る事は降る 雨の国土を潤すが如く世の遍く仰げる事も吹く風の草木を靡かすに同じ六波羅殿の一家の君達と云ひ てしかば華族も英雄も誰肩を並べ面を向かふる君なし入道相国の小舅平大納言時忠卿宣ひけるはこの 一門にあらざらん者は皆人非人たるべしとぞ宣ひけるさればいかなる人もその縁に結ぼれんとぞしけ る烏帽子の矯めやうより始めて衣文の指貫の輪に至るまで何事も六波羅様とだに云ひてしかば一天四 海の人皆これを学ぶいかなる賢王聖主の御政摂政関白の御成敗をも世に余されたる徒者などの人の聞 かぬ所に寄り合ひて何となう謗り傾け申す事は常の習ひなれどもこの禅門世盛りのほどは聊か忽に申 す者なしその故は入道相国の謀に十四五六の童を三百人掬つて髪を禿に切り廻し赤き直垂を着せて召 し使はれけるが京中に満ち満ちて往反しけり自づから平家の御事を悪し様に申す者あれば一人聞き出 ださぬほどこそありけれ余党に触れ催しその家に乱入し資材雑具を追捕しその奴を搦め捕りて六波羅 へ率て参る凡そ目に見心に知るといへども詞に顕して申す者なし六波羅殿の禿と云ひてしかば道を過 ぐる馬車も皆避ぎてぞ通りける禁門を出入りすといへども姓名を尋ねらるるに及ばず京師の長吏これ が為に目を側むと見えたり我が身の栄花を極むるのみならず一門共に繁昌して嫡子重盛内大臣左大将 次男宗盛中納言右大将三男知盛三位中将嫡孫維盛四位少将すべて一門の公卿十六人殿上人三十余人諸 国の受領衛府諸司都合六十余人なり世にはまた人なくぞ見えられける昔奈良の御門の御時神亀五年朝 家に中衛大将を始め置かれ大同四年に中衛を近衛と改められしより以来兄弟左右に相並ぶ事僅かに三 四箇度なり文徳天皇の御時は左に良房右大臣左大将右に良相大納言右大将これは閑院左大臣冬嗣の御 子なり朱雀院の御宇には左に実頼小野宮殿右に師輔九条殿貞信公の御子なり御冷泉院の御時は左に教 通大二条殿右に頼宗堀川殿御堂関白の御子なり二条院の御宇には左に基房松殿右に兼実月輪殿法性寺 殿の御子なりこれ皆摂?の臣の御子息凡人にとつてはその例なし殿上の交はりをだに嫌はれし人の子 孫にて禁色雑袍を許り綾羅錦繍を身に纏ひ大臣の大将に成りて兄弟左右に相並ぶ事末代とはいひなが ら不思議なりし事共なりその外御娘八人おはしき皆とりどりに幸ひ給へり一人は桜町中納言重範教卿 の北方にておはすべかりしが八歳の年御約束ばかりにて平治の乱以後引き違へられ後には花山院左大 臣殿の御台盤所に成らせ給ひて君達数多ましましけり抑もこの重範卿を桜町中納言と申しける事は勝 れて数奇給へる人にて常は吉野山を恋ひつつ町に桜を植ゑ並べその内に屋を建てて住み給ひしかば来 たる年の春毎に見る人皆桜町とぞ申しける桜は咲きて七箇日に散るを名残を惜しみ天照大神に祈り申 されければにや三七日まで名残ありけり君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし花も心ありければ 二十日の齢を保ちけり一人は后に立たせ給ふ皇子御誕生ありて皇太子に立ち位に即かせ給ひしかば院 号蒙らせ給ひて建礼門院とぞ申しける入道相国の御娘なる上天下の国母にてましませばとかう申すに 及ばれず一人は六条摂政殿の北政所に成らせ給ふ高倉院御在位の御時御母代とて准三后の宣旨を蒙り 白河殿とて重き人にてぞましましける一人は普賢寺殿の北政所に成らせ給ふ一人は七条修理大夫信隆 卿に相具し給へり一人は七条冷泉大納言隆房卿の北方また安芸国厳島の内侍が腹に一人おはしけるは 後白河法皇へ参らせ給ひて偏に女御のやうでぞましましけるその外九条院の雑仕常磐が腹に一人これ は花山院殿の上臈女房にて廊御方とぞ申しける日本秋津島は僅かに六十六箇国平家知行の国三十余箇 国既に半国に越えたりその外荘園田畑幾らといふ数を知らず綺羅充満して堂上花の如し軒騎群集して 門前市をなす楊州の金荊州の珠呉郡の綾蜀江の錦七珍万宝一つとして欠けたる事なし歌堂舞閣の基魚 龍爵馬の翫び物おそらくは帝闕も仙洞もこれには過ぎじとぞ見えし昔より今に至るまで源平両氏朝家 に召し使はれて王化に従はず自づから朝権を軽んずる者には互ひに戒めを加へしかば代の乱れはなか りしに保元に為義斬られ平治に義朝誅せられて後は末々の源氏共或いは流され或いは失はれて今は平 家の一類のみ繁昌して頭を差し出だす者なしいかならん末の代までも何事かあらんとぞ見えしされど も鳥羽院御晏駕の後は兵革うち続いて死罪流刑欠官停任常に行はれて海内も静かならず世間も末だ落 居せず就中永暦応保の比よりして院の近習者をば内より御戒めあり内の近習者をば院より戒めらるる 間上下恐れ戦いて安い心もなしただ深淵に臨んで薄氷を踏むに同じ主上上皇父子の御間に何事の御隔 たりあるべきなれども思ひの外の事共多かりけりこれも世澆季に及んで人梟悪を先とする故なり主上 院の仰せを常は申し変へさせましける中にも人耳目を驚かし世を以て大きに傾け申す事ありけり故近 衛院の后太皇太后宮と申ししは大炊御門右大臣公能公の御娘なり先帝に後れ奉り給ひて後は九重の外 近衛川原の御所にぞ移り住ませ給ひける前の后の宮にて幽かなる御有様にて渡らせ給ひしが永暦の比 ほひは御年二十二三にもやならせましましけん御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなりされども天 下第一の美人の聞えましましければ主上色にのみ染める御心にて密かに高力士に詔じて外宮に引き求 めしむるに及びてこの大宮へ御艶書あり大宮敢へて聞し召しも入れず主上ひたすら早頬に顕れて后御 入内あるべき由右大臣家に宣旨を下さるこの事天下に於いて異なる勝事なれば公卿僉議ありけり各異 見を云ふまづ異朝の先蹤をとぶらふに震旦の則天皇后は唐の太宗の后高宗皇帝の継母なり太宗崩御の 後高宗の后に立ち給ふ事ありそれは異朝の先規たる上別段の事なり然れども我が朝には神武天皇より 以来人皇七十余代に及ぶまで未だ二代の后に成らせ給ふ例を聞かずと諸卿一同に申されたり上皇も然 るべからざる由拵へ申させ給へども主上仰せなりけるは天子に父母無し我十善の戒功によつて万乗の 宝位を保つこれほどの事などか叡慮に任せざるべきとてやがて御入内の日宣下せられける上は力及ば せ給はず大宮かくと聞し召されけるより御涙に沈ませおはします先帝に後れ参らせにし久寿の秋の初 め同じ野原の露とも消え家をも出で世をも遁れたりせば今かかる憂き事をば聞かざらましとぞ御嘆き ありける父の大臣拵へ申させ給ひけるは世に従はざるを以て狂人とすと見えたり既に詔命を下さる子 細を申すに所なしただ速やかに参らせ給ふべきなりもし皇子御誕生ありて君も国母と云はれ愚老も外 祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらんこれ偏に愚老を助けさせおはします御孝行の御至りなるべしと やうやうに拵へ申させ給へども御返事もなかりけり大宮その比何となき御手習ひの序でにうきふしに しづみもやらで河竹の世にためしなき名をやながさん世にはいかにして洩れけるやらん哀れに優しき 例しにぞ人皆申し合はれける既に御入内の日にもなりしかば父の大臣供奉の上達部出車の儀式など心 殊に出だし立て参らさせ給ひけり大宮物憂き御出で立なれば頓にも奉らず遥かに夜更け小夜も半ばに なりて後御車に扶け乗せられ給ひけり御入内の後は麗景殿にぞましましけるひたすら朝政を進め申さ せ給ふ御様なりかの紫宸殿の皇居には賢聖の障子を立てられたり伊尹鄭伍倫虞世南太公望?里先生李 勣司馬手長足長馬形の障子鬼の間李将軍が姿をさながら写せる障子もあり尾張守小野道風が七廻賢聖 の障子と書けるも理とぞ見えしかの清涼殿の画図の御障子には昔金岡が書きたりし遠山の有明の月も ありとかや故院の未だ幼主にてましましけるそのかみ何となき御手弄りの序でに書き曇らかさせ給ひ たりしがありしながらに少しも違はぬを御覧じて先帝の昔もや御恋しう思し召されけんおもひきやう き身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見んとはその間の御仲らひ云ひ知らず哀れに優しかりし御 事なりさるほどに永万元年の春の比より主上御不予の御事と聞えさせ給ひしが夏の初めにもなりしか ば殊の外に重らせ給ふこれによつて大蔵大輔伊紀兼盛が娘の腹に今上一宮の二歳に成らせ給ふがまし ましけるを太子に立て参らさせ給ふべしと聞えしほどに同じき六月二十五日俄に親王の宣旨下させ給 ふやがてその夜受禅ありしかば天下何となう周章てたる様なりけりその時の有職の人々申し合はれけ るはまづ本朝に童帝の例を尋ぬるに清和天皇九歳にして文徳天皇の御禅を受けさせ給ふこれはかの周 公旦の成王に代はり南面にして一日万機の政を治め給ひしに准へて外祖忠仁公幼主を扶持し給へりこ れぞ摂政の始めなる鳥羽院五歳近衛院三歳にて践祚ありかれをこそいつしかなれと申ししにこれは二 歳にならせ給ふ先例なし物騒がしともおろかなりさるほどに同じき七月二十七日上皇つひに崩御成り ぬ御歳二十三蕾める花の散れるが如し玉の簾錦の帳の内皆御涙に咽ばせおはしますやがてその夜広隆 寺の艮蓮台野の奥船岡山に納め奉る御葬送の時興福延暦両寺の大衆額打論といふ事し出だして互ひに 狼藉に及ぶ一天の君崩御成りて後御墓所へ渡し奉る時の作法は南北二京の大衆悉く供奉して御墓所の 廻りに我が寺々の額を打つ事ありけりまづ聖武天皇の御願争ふべき寺なければ東大寺の額を打つ次に 淡海公の御願とて興福寺の額を打つ北京には興福寺に対へて延暦寺の額を打つ次に天武天皇の御願教 待和尚智証大師の草創とて園城寺の額を打つ然るを山門の大衆いかが思ひけん先例を背いて東大寺の 次興福寺の上に延暦寺の額を打つ間南都の大衆とやせましかうやせましと僉議する処に興福寺の西金 堂衆観音房勢至房とて聞えたる大悪僧二人ありけり観音房は黒糸威の腹巻に白柄の長刀茎短に執り勢 至房は萌黄威の腹巻に黒漆の大太刀持ちて二人つと走り出で延暦寺の額を切つて落し散々に打ち割り 嬉しや水鳴るは滝の水日は照るとも絶えずと歌へと囃しつつ南都の衆徒の中へぞ入りにける山門の大 衆狼藉を致さば手向かへすべき処に心深う狙ふ方もやありけん一詞も出ださず御門隠れさせ給ひて後 は心なき草木までも皆愁へたる色にてこそあるべきにこの騒動のあさましさに高きも賤しきも肝魂を 失ひて四方へ皆退散す同じき二十九日の午の刻ばかり山門の大衆夥しう下洛すと聞えしかば武士検非 違使西坂本に行き向かつて防ぎけれども事ともせず押し破つて乱入すまた何者の申し出だしたりける やらん一院山門の大衆に仰せて平家追討せらるべしと聞えしかば軍兵内裏に参じて四方の陣頭を警固 す平氏の一類皆六波羅へ馳せ集まる一院も急ぎ六波羅へ御幸成る清盛公その時は未だ大納言右大将に ておはしけるが大きに恐れ騒がれけり小松殿何によつて只今さる事候ふべきと鎮め申されけれども兵 共騒ぎ罵る事夥しされども山門の大衆六波羅へは寄せずして漫ろなる清水寺に押し寄せて仏閣僧房一 宇も残さず焼き払ふこれは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし清水寺は興福寺の 末寺たるによつてなり清水寺焼けたりける朝や観音火坑変成池はいかにと札に書きて大門の前に立て たりければ次の日また歴劫不思議力不及ばずと返しの札をぞ打ちたりける衆徒帰り上りにければ一院 も急ぎ六波羅より還御なる重盛卿ばかりぞ御供には参られける父卿は参られずなほ用心の為かとぞ見 えし重盛卿御送りより帰られたりければ父大納言宣ひけるはさても一院の御幸こそ大きに恐れ覚ゆれ 予ても思し召し寄り仰せらるる旨のあればこそかうは聞えめそれにもうち解け給ふまじと宣へば重盛 卿申されけるはこの事努々御気色にも御詞にも出ださせ給ふべからず人に心付け顔に中々悪しき御事 なりそれにつけてもよくよく叡慮に背かせ給はで人の為に御情を施させましまさば神明三宝加護ある べしさらんにとつては御身の恐れ候ふまじとて立たれければ重盛卿はゆゆしう大様なる者かなとぞ父 卿も宣ひける一院還御の後御前に疎からぬ近習者達数多候はれけるに中にさても不思議の事を申し出 だしたるものかな露も思し召し寄らぬものをと仰せければ院中の切り者に西光法師といふ者あり折節 御前近う候ひけるが進み出でて天に口なし人を以て云はせよと申す平家以ての外に過分に候ふ間天の 御戒めにやとぞ申しける人々この事由なし壁に耳あり恐ろし恐ろしとぞ各囁き合はれけるさるほどに その年は諒闇なりければ御禊大嘗会も行はれず建春門院その時は未だ東御方と申しけるその御腹に一 院の宮ましましけるを太子に立て参らさせ給ふべしと聞えしほどに同じき十二月二十四日俄に親王の 宣旨蒙らせ給ふ明くれば改元ありて仁安と号す同じき年の十月八日去年親王の宣旨蒙らせ給ひし皇子 東三条にて春宮に立たせ給ふ春宮は御伯父六歳主上は御甥三歳いづれも昭穆に相叶はず但し寛和二年 に一条院七歳にて御即位あり三条院十一歳にて春宮に立たせ給ふ先例なきにしもあらず主上は二歳に て御禅を受けさせ給ひ僅かに五歳と申しし二月十九日御位をすべりて新院とぞ申しける未だ御元服も なくして太上天皇の尊号あり漢家本朝これや初めならん仁安三年三月二十日新帝大極殿にして御即位 ありこの君の位に即かせ給ひぬるはいよいよ平家の栄花とぞ見えし国母建春門院と申すは平家の一門 にておはしける上取り分き入道相国の北方八条二位殿の御妹なりまた平大納言時忠卿と申すも女院の 御兄人にてましましければ内外に付けても執権の臣とぞ見えしその比の叙位除目と申すも偏にこの時 忠卿のままなり楊貴妃が幸ひし時楊国忠が栄えしが如し世の覚え時の綺羅めでたかりき入道相国天下 の大小事を宣ひ合はせられければ時の人平関白とぞ申しける入道は相国一天四海を掌の内に握り給ひ し上は世の謗りをも憚らず人の嘲りをも返り見ず不思議の事をのみし給へりたとへばその比都に聞え たる白拍子の上手妓王妓女とておとといあり刀自といふ白拍子の娘なり然るに姉の妓王をば入道相国 寵愛せられけりこれによりて妹の妓女をも世の人もてなす事斜めならず母刀自にもよき屋造つて取ら せ毎月百石百貫を送られければ家内富貴して楽しい事斜めならず抑も我が朝に白拍子の始まりける事 は昔鳥羽院の御宇に島千歳和歌前彼等二人が舞ひ出だしたりけるなり初めは水干に立烏帽子白鞘巻を 差いて舞ひければ男舞とぞ申しける然るを中比より烏帽子刀を除けられ水干ばかりを用ひたりさてこ そ白拍子とは名付けけれ京中の白拍子共妓王が幸のめでたきやうを聞きて羨む者もあり嫉む者もあり けり羨む者はあなめでたの妓王御前の幸やな同じ遊女とならば誰も皆あのやうでこそありたけれいか さまこれは妓といふ文字を名に付けてかくはめでたきやらんいざ我等もついてみんとて或いは妓一と 付き妓二と付き或いは祗福祗徳などいふ者もありけり嫉む者は何条名により文字には依るべき幸はた だ前世の生れ付きでこそあるなれとて付かぬ者も多かりけりかくて三年と申すに都にまた白拍子の上 手一人出で来たり加賀国の者なり名をば仏とぞ申しける年十六とぞ聞えし昔より多くの白拍子共はあ りしかどもかかる舞は未だ見ずとて京中の上下もてなす事斜めならずある時仏御前申しけるは我天下 に聞えたれども当時さしもめでたう栄えさせ給ふ西八条殿へ召されぬ事こそ本意なけれ遊び者の習ひ 何かは苦しかるべき推参して見んとてある時西八条殿へぞ参りたる人参りて当時都に聞え候ふ仏御前 こそ参りて候ふと申しければ入道何条さやうの遊び者は人の召しに随ひてこそ参れ左右なう推参する やうやあるその上神ともいへ仏ともいへ祇王があらん所へはいかにも叶ふまじい疾う疾う罷り出でよ とぞ宣ひける仏御前はすげなう云はれ奉りて既に出でんとしけるを祇王入道殿に申しけるは遊び者の 推参は常の習にてこそ候へその上年も未だ幼う候ふなるがたまたま思ひ立ちて参りて候ふをすげなう 仰せられて返させ給はん事こそ不便なれいかばかり恥づかしうかたはら痛くも候ふらん我が立てし道 なれば人の上とも覚えずたとひ舞を御覧じ歌を聞し召さずとも御対面ばかりはなじかは苦しう候ふべ きただ理を枉げて召し返し御対面ありて返させ給はば有難き御情でこそ候はんずらめと申しければ入 道いでいで和御前があまりに云ふ事なれば見参して返さんとて御使を立てて召されけり仏御前はすげ なう云はれ奉りて車に乗りて既に出でんとしけるが召されて帰り参りたり入道やがて出会ひ対面あり て今日の見参はあるまじかりつるを妓王が何と思ふやらんあまりに申し進むる間見参はしつ見参する ほどではいかでか声をも聞かであるべきまづ今様一つ歌へかしと宣へば仏御前承り候ふとて今様一つ ぞ歌ふたる君を初めて見る折は千代も経ぬべし姫小松御前の池なる亀岡に鶴こそ群れ居て遊ぶめれと 押し返し押し返し三遍歌ひ澄ましけれ見聞の人々皆耳目を驚かす入道も面白げに思ひ給ひて和御前は 今様は上手でありけりこの定では舞も定めてよかるらん一番見ばや鼓打召せとて召されけり打たせて 一番舞ふたりけり仏御前は髪姿より始めて眉目形世に勝れ声よく節も上手なりければなじかは舞も損 ずべき心も及ばず舞ひ澄ましたりければ入道相国舞に愛で給ひて仏に心を移されたり仏御前こはされ ば何事候ふぞやもとよりわらはは推参の者にて出だされ参らせ候ひしを妓王御前の申し諚によつてこ そ召し返されても候へかやうに召し置かれなば妓王御前の思ひ給はん心の内は恥づかしう侍るべし早 々暇給ひて出ださせおはしませと申しければ入道すべてその儀あさまし妓王があるを憚るかその儀な らば妓王をこそ出ださめと宣へば仏御前それまたいかでかさる事候ふべき諸共に召し置かれんだにも 心憂く候ふべきに妓王御前を出ださせ参らせてわらはが一人召し置かれなばいとど心憂く候ふべし自 づから後まで忘れぬ御事ならば召されてまたは参るとも今日は暇を給はらんとぞ申しける入道何条そ の儀あるべきただ妓王を出ださめとて疾う疾う罷り出でよと御使重ねて三度までこそ立てられけれ妓 王日比より思ひ設けたる道なれどもさすがに昨日今日とは思ひも寄らず頻りに出づき由宣ふ間掃き拭 ひ塵拾はせ見苦しき物共取りしたためて出づべきにこそ定まりけれ一樹の陰に宿り合ひ同じ流れを掬 ぶだに別れは悲しき習ひぞかし況してこれは三年が間住みなれし所なれば名残も惜しう悲しくてかひ なき涙ぞこぼれけるさてもあるべき事ならねば今はかうとて出けるがなからん跡の忘れ形見にもとや 思ひけん障子に泣く泣く一首の歌をぞ書き付けけるもえ出づるもかるるもおなじ野辺の草いづれか秋 にあはではつべきさて車に乗りて宿所へ帰り障子の内に倒れ臥しただ泣くより外の事ぞなき母や妹こ れを見ていかにやいかにと問ひけれども妓王とかうの返事にも及ばず具したる女に尋ねてこそさる事 ありとも知りてけれさるほどに毎月に送られける百石百貫をも止められて今は仏御前の縁の者共ぞ始 めて楽しみ栄えける京中の上下この由を伝へ聞きてまことや妓王御前こそ西八条殿より暇給ひて出で たるなれいざ見参して遊ばんとて或いは文を遣はす人もあり或いは使者を立つる者もあり妓王されば とて今更人に対面して遊び戯るべきにもあらねば文を取り入るる事もなし況して使にあひしらふまで もなかりけりこれにつけても悲しくていとど涙にのみぞ沈みけるかくて今年も暮れぬ明くる春の比入 道相国妓王が許へ使者を立ていかにやその後何事かあるあまりに仏の徒然げに見ゆるに参りて今様を も歌ひ舞などをも舞ひて仏慰めよとぞ宣ひける妓王とかうの御返事にも及ばず涙を押さへて臥しにけ り入道重ねてなど妓王は返事はせぬぞ参るまじいか参るまじくはそのやうを申せ浄海も計らふ旨あり とぞ宣ひける母刀自これを聞くに悲しくていかなるべしとも覚えず泣く泣く教訓しけるはいかに妓王 御前など御返事をば申さぬぞかやうに叱られ参らせんよりはと云へば妓王涙を押さへて参らんと思ふ 道ならばこそやがて参るとも申さめ参らざらんもの故に何と御返事を申すべしとも覚えずこの度召さ んに参らずば計らふ旨ありと仰せらるるは都の外へ出ださるるかさらずば命を召さるるかこの二つに よも過ぎじたとひ都を出ださるるとも嘆くべき道にあらずたとひ命を召さるるとも惜しかるべきまた 我が身かは一度憂き者に思はれ参らせて二度面を向くべきにもあらずとてなほ御返事をも申さず母刀 自重ねて教訓しけるはいかにや妓王御前それ天が下に住まんほどはともかうも入道殿の仰せをば背く まじき事にてあるぞよ男女の縁宿世今に始めぬ事ぞかし千年万年とは契れどもやがて別るる仲もあり 白地とは思へども長らへ果つる事もあり世に定めなきものは男女の習ひなり況や和御前はこの三年が 間思はれ参らせたれば有難き御情でこそ候へこの度召さんに参らねばとて命を失はるるまではよもあ らじ都の外へぞ出だされんずらんたとひ都を出ださるるとも和御前達は年若ければいかならん岩木の はざまにても過ぐさん事易かるべしされども我が身は年長け齢傾いて習はぬ鄙の住まひこそ予て思ふ も悲しかりけれただ我を都の内にて住み果てさせよそれぞ今生後生の孝養にてあらんずると云へば妓 王憂しと思ひし道なれども親の命を背かじとつらき道に赴きて泣く泣くまた出で立ちける心の内こそ 無慙なれ一人参らんはあまり物憂しとて妹の妓女をも相具しまた外の白拍子二人惣じて四人一車に取 り乗りて西八条殿へぞ参じたる前々召されける所へは入れられず遥かに下りたる所に座敷しつらうて ぞ置かれたる妓王こはされば何事ぞや我が身に過つ事はなけれども捨てられ奉るだにあるに座敷をさ へ下げらるる事の心憂さよこはいかにせんと思ふに知らせじと押さふる袖の隙よりも余りて涙ぞこぼ れける仏御前これを見てあまりに哀れに思ひければあれはいかに日比召されぬ所にても候はばこそこ れへ召され候へかしさらずばわらはに暇を給べ出でて見参らせんと申しければ入道すべてその儀ある まじと宣ふ間力及ばで出ざりけり入道やがて出会ひ対面ありて妓王が心の内をば知り給はずいかにそ の後は何事かあるさては舞も見たけれどもそれは次の事まづ今様一つ歌へかしと宣へば妓王参るほど ではともかうも入道殿の仰せをば背くまじと思ひければ落つる涙を押さへつつ今様一つぞ歌ふたる仏 も昔は凡夫なり我等もつひには仏なりいづれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれと泣く泣く二 遍歌ふたりければその座に幾らも並居給へる平家一門の公卿殿上人諸大夫侍に至るまで皆感涙をぞ流 されける入道も時に取りては神妙にも申したるものかなさては舞も見たけれども今日は紛るる事の出 で来たりこの後は召さずとも常に参りて今様をも歌ひ舞などを舞ふて仏慰めよとぞ宣ひける妓王とか うの御返事にも及ばず涙を押さへて出にけり憂しと思ひし道なれども親の命を背かじとつらき道に赴 きて二度憂き目を見つる事の心憂さよかくてこの世にあるならばまたも憂き目を見んずらん今はただ 身を投げんと思ふなりと云へば妹の妓女これを聞きて姉身を投げば我も共に身を投げんと云ふ母刀自 これを聞くに悲しくて泣く泣くまた教訓しけるはいかに妓王御前さやうの事あるべしとも知らずして 教訓して参らせつる事の恨めしさよまことに和御前の恨むるも理なり但し和御前が身を投げば妹の妓 女も共に身を投げんと云ふ二人の娘共に後れなん後年老い衰へたる母命生きても何にかはせんなれば 我も共に身を投げんと思ふなり未だ死期も来たらぬ親に身を投げさせん事は五逆罪にぞあらんずらん この世は仮の宿りなり恥ぢても恥ぢても何ならずただ長き世の闇こそ心憂けれ今生でこそあらめ後生 でだに悪道へ赴かんずる事の悲しさよとさめざめと掻き口説ければ妓王げにもさやうに候はば五逆罪 疑ひなし一旦憂き恥を見つる事の口惜しさにこそ身を投げんとは申したれさ候はば自害をば思ひ止ま り侍りぬかくて憂き世にあるならばまたも憂き目を見んずらん今はただ都の外へ出でんとて妓王二十 一にて尼に成り嵯峨の奥なる山里に柴の庵を引き結び念仏してぞ居たりける妹の妓女これを見て姉身 を投げば我も共に身を投げんとこそ契りしか況して世を厭はんに誰かは劣るべきとて十九にて様を変 へ姉と一所に籠り居て後世を願ふぞ哀れなる母刀自これを見て若き娘共だに様を変ふる世の中に年老 い衰へたる母白髪を付けても何にかはせんとて四十五にて髪を剃り二人の娘諸共に一向専修に念仏し て偏に後世をぞ願ひけるかくて春過ぎ夏闌けぬ秋の初風吹きぬれば星合の空を眺めつつ天の戸渡る梶 の葉に思ふ事書く比なれや夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても日の入り給ふ所は西方浄土にてあ るなりいつか我等も彼処へ生れて物を思はで過ぐさんずらんとかかるにつけても過ぎにし昔の憂き事 共思ひ続けてただ尽きせぬものは涙なり黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉ぢ塞ぎ燈かすかに掻き立て て親子三人念仏して居たる所に竹の編戸をほとほととうち叩く者出で来たりその時尼共胆を消しあは れこれは云ふかひなき我等が念仏して居たるを妨げんとて魔縁の来たるにてぞあるらん昼だにも人も 訪ひ来ぬ山里の柴の庵の内なれば夜更けて誰か尋ぬべき僅かの竹の編戸なれば開けずとも押し破らん 事易かるべし中々ただ開けて入れんと思ふなりそれに情をかけずして命を失ふものならば年比頼み奉 る弥陀の本願を強く信じて隙なく名号を唱へ奉るべし声を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の来迎にてましま せばなどか引接なかるべき相構へて念仏怠り給ふなと互ひに心を戒めて竹の編戸を開けたれば魔縁に てはなかりけり仏御前ぞ出で来たる妓王あれはいかに仏御前と見奉るは夢かや現かと云ひければ仏御 前涙を押さへてかやうの事申せば事新しう候へども申さずばまた思ひ知らぬ身ともなりぬべければ始 めよりして申すなりもとよりわらはは推参の者にて出だされ参らせ候ひしを妓王御前の申諚によつて こそ召し返されても候ふに女の云ふかひなき事我が身を心に任せずして押し留められ参らせし事心憂 くこそ侍りしか和御前の出だされ給ひしを見しに付けてもいつかまた我が身の上と思ひて嬉しとは更 に思はず障子にまたいづれか秋にあはではつべきと書き置き給ひし筆の跡げにもと思ひ侍りしぞやそ の後は御行方を何処とも知り参らせざりつるがかやうに一所にと承りて後はあまりに羨ましくて常に は暇を申ししかども入道殿更に御用ひましまさずつくづくものを案ずるに娑婆の栄花は夢の夢楽しみ 栄えて何かせん人身受け難く仏教には遇ひ難しこの度泥梨に沈みなば多生広劫をば隔つとも浮かび上 らん事難し年の若きを頼むべきにあらず老少不定の境なり出づる息入るをも待つべからず陽炎稲妻よ りもなほはかなし一旦の楽しみに誇りて後世を知らざらん事の悲しさに今朝紛れ出でてかくなりてこ そ参りたれとて被いたる衣をうち退けたるを見れば尼に成りてぞ出で来たるかやうに様を変へて参り たれば日比の咎をば許し給へ許さんと宣はば諸共に念仏して一蓮の身とならんそれにもなほ心行かず ばこれより何方へも迷ひ行きいかならん松が根苔の莚にも倒れ臥し命のあらん限りは念仏して往生の 素懐を遂げんと袖を顔に押し当ててさめざめと掻き口説きければ妓王涙を押さへて和御前のこれほど に思ひ給ひけるとは夢にも知らず憂き世の中のさがなれば身の憂しとこそ思ふべきにともすれば和御 前の事のみ恨めしくて往生の素懐を遂げん事叶ふべしとも覚えず今生も後生も憖じひに仕損じたる心 地にてありつるにかやうに様を変へておはしたれば日比の咎は露塵ほども残らず今は往生疑ひなしこ の度素懐を遂げんこそ何よりもまた嬉しけれわらはが尼になりしをだに世に有難き事のやうに人も云 ひ我等もまた思ひしが今和御前の出家に比ぶれば事の数にもあらざりけりされどもそれは世を恨み身 を恨みて様を変ふるは世の習ひ和御前は恨みもなく嘆きもなし今年は僅かに十七にこそなる人のこれ ほどに穢土を厭ひ浄土を願はんと深く思ひ入れ給ふこそまことの大道心とは覚え候ひしか嬉しかりけ る善知識かないざ諸共に願はんとて四人一所に籠り居て朝夕仏前に花香を供へ余念なく願ひけるが遅 速こそありけれ四人の尼等皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えしされば後白河法皇の長講堂の過去帳に も妓王妓女仏刀自等が尊霊と四人一所に入れられたり有難かりし事なりけりさるほどに嘉応元年七月 十六日一院御出家あり御出家の後も万機の政を知ろし召しされければ院内分く方なし院中に近く召し 使はるる公卿殿上人上下の北面に至るまで官位俸禄皆身に余るばかりなりされども人の心の習ひなれ ばなほ飽きたらであつぱれその人の失せたらばその国は空きなんその人の滅びたらばその官にはなり なんなど疎からぬどちは寄り合ひ寄り合ひ囁きけり一院も内々仰せなりけるは昔より代々の朝敵を平 らぐる者多しといへども未だかやうの事なし貞盛秀郷が将門を討ち頼義が貞任宗任を滅ぼし義家が武 衡家衡を攻めたりしにも勧賞行はれし事僅か受領には過ぎざりき清盛はかく心のままに振舞ふ事こそ 然るべからねこれも世末になりて王法の尽きぬる故なりと仰せなりけれども序で無ければ御戒もなし 平家もまた別して朝家を恨み奉る事もなかりしに世の乱れ初めける根本は去にし嘉応二年十月十六日 に小松殿の次男新三位中将資盛その時は未だ越前守とて生年十三になられけるが雪斑に降つたりけり 枯野の景色まことに面白かりければ若き侍共三十騎ばかり召し具して蓮台野や紫野右近馬場にうち出 でて鷹共数多据ゑさせ鶉雲雀を追つ立て追つ立て終日に狩り暮らし薄暮に及びて六波羅へこそ帰られ けれその時の御摂禄は松殿にてましましけるが中御門東洞院の御所より御参内ありけり郁芳門より入 御あるべきにて東洞院を南へ大炊御門を西へ御出なる資盛朝臣大炊御門猪熊にて殿下の御出に鼻突に 参り逢ふ御供の人々何者ぞ狼藉なり御出のなるに乗物より下り候へ下り候へといらてけれどもあまり に誇り勇み世を世ともせざりける上召し具したる侍共皆二十より内の若者共なり礼儀骨法弁へたる者 一人もなし殿下の御出とも云はず一切下馬の礼義にも及ばずただ駆け破つて通らんとする間暗さは暗 しつやつや入道の孫とも知らずまた少々は知りたれどもそら知らずして資盛朝臣を始めとして侍共皆 馬より取りて引き落す頗る恥辱に及びけり資盛朝臣這ふ這ふ六波羅へおはして祖父の相国禅門にこの 由訴へ申されければ入道大きに怒つてたとひ殿下なりとも浄海が辺をば憚り給ふべきに幼き者に左右 なく恥辱を与へられけるこそ遺恨の次第なれかかる事よりして人には欺かるるぞこの事思ひ知らせ奉 らではえこそあるまじけれいかにもして殿下を恨み奉らばやと思ふはいかにと宣へば重盛卿申されけ るはこれは少しも苦しう候ふまじ頼政光基など申す源氏共に欺かれて候はんはまことに一門の恥辱に ても候ふべし重盛が子共とて候はんずる者の殿下の御出に参り逢ひて乗物より下り候はぬこそ返す返 す尾籠に候へとてその時事に逢うたる侍共皆召し寄せて自今以後も汝等よくよく心得べし誤つて殿下 へ無礼の由を申さばやとこそ思へとてこそ帰へされけれその後入道相国小松殿にはかうとも宣ひも合 はせずして片田舎の侍共の極めて強らかにて入道殿の仰せより外はまた恐しき事なしと思ふ者共難波 妹尾を始めとして都合六十余人召し寄せて来たる二十一日主上御元服の御定めの為に殿下御出あるべ かなり何処にても待ち受け奉り前駆御随身共が髻切つて資盛が恥雪げとこそ宣ひけれ兵共畏れ承りて 罷り出づ殿下これをば夢にも知ろし召されず主上明年御元服御加冠拝官の御定めの為に御直盧に暫く 御座あるべきにて常の御出でよりも引き繕はせ給ひて今度は待賢門より入御あるべきにて中御門を西 へ御出なる猪熊堀川の辺に六波羅の兵共直甲三百余騎待ち受け奉り殿下を中に取り籠め参らせて前後 より一度に鬨をどつとぞ作りける前駆御随身共が今日を晴れと装束着たるを彼処に追ひかけ此処に追 ひ詰め馬より取つて引き落し散々に凌轢し一々に髻を切る随身十人が内右の府生武基が髻も切られて けりその中に藤蔵人大夫隆教が髻を切るとてこれは汝が髻と思ふべからず主の髻と思ふべしと云ひ含 めてぞ切つてけるその後に御車の内へも弓の弭突き入れなどして簾かなぐり落し御牛の鞦当胸切り放 ちかく散々にし散らして悦びの鬨を作り六波羅へこそ参りけれ入道神妙なりとぞ宣ひける御車副には 因幡催使鳥羽国久丸といふ男下臈なれどもさかさかしき者にてやうやうに設ひ御車仕つて中御門の御 所へ還御成し奉る束帯の御袖にて御涙を押さへつつ還御の儀式あさましさ申すも中々おろかなり大織 冠淡海公の御事は挙げて申すに及ばず忠仁公昭宣公より以来摂政関白のかかる御目に逢はせ給ふ事未 だ承り及ばずこれこそ平家の悪行の始めなれ小松殿こそ大きに騒いでその時行き向かひたる侍共召し 寄せて皆勘当せらるたとひ入道いかなる不思議を下知し給ふともなど重盛に夢をば見せざりけるぞ凡 そは資盛奇怪なり旃檀は二葉より香ばしとこそ見えたれ既に十二三に成らんずる者が今は礼義を存知 してこそ振舞ふべきにかやうの尾籠を現じて入道の悪名を立つ不孝の至り汝一人にありけりとて暫く 伊勢国に追ひ下さるさればこの大将をば君も臣も御感ありけりとぞ聞えしこれによつて主上御元服の 御定めはその日延ばさせ給ひて同じき二十五日院の殿上にてぞ御元服の御定めはありける摂政殿さて も渡らせ給ふべきならねば同じき十二月九日兼ねて宣旨を蒙り十四日太政大臣に上がらせ給ふやがて 同じき十七日慶び申しのありしかども世の中は苦々しうぞ見えしさるほどに今年も暮れて嘉応三年に なりにけり正月五日主上御元服ありて同じき十三日朝覲の行幸ありけり法皇女院待ち受け参らさせ給 ひて初冠の御粧いかばかりらうたく思し召されけん入道相国の御娘女御に参らせ給ふ御歳十五歳法皇 御猶子の儀なりその比妙音院の太政大臣殿大将を辞し申させ給ふ事ありけり時に徳大寺大納言実定卿 その仁に当たり給ふ由聞ゆまた花山院の中納言兼雅卿も所望ありその外故中御門の藤中納言家成卿の 三男新大納言成親卿も平に申さるこの大納言は院の御気色よかりければ様々の祈りをぞ始めらるまづ 八幡に百人の僧を籠めて信読の大般若を七日読ませられたりける最中に甲良大明神の御前なる橘の木 へ男山の方より山鳩三つ飛び来たつて食ひ合ひてぞ死ににける鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり宮寺 にかかる不思議なしとて時の検校匡清法印この由内裏へ奏聞したりければこれ直事にあらず御占ある べしとて神祗官にして御占あり重き御慎みと占ひ申す但し君の御慎みにはあらず臣下の慎みとぞ申し ける大納言それに恐れをも致されず昼は人目の繁ければ夜な夜な歩行にて中御門烏丸の宿所より賀茂 の上の社へ七夜続けて参られけり七夜に満ずる夜宿所に下向して苦しさに少し微睡みたりける夢に賀 茂の上の社へ続けて参りたると思しくて御宝殿の御戸押し開きゆゆしう気高げなる御声にてさくらば な賀茂の川風うらむなよちるをばえこそとどめざりけれ新大納言なほ恐れをも致されず賀茂の上の社 の御宝殿の御後なる杉の洞に壇を立てある聖を籠めて拏幾爾の法を百日行はせられける最中に俄に空 掻き曇り雷夥しう鳴りてかの大杉に雷落ちかかり雷火燃え上りて宮中既に危く見えけるを宮人共多く 走り集まりてこれをうち消つさて後外法行ひける聖を追出せんとするに我当社に百日参籠の志あり今 日は僅か七十五日になる全く出まじとて働かずこの由を社家より内裏へ奏聞しければただ法に任せよ と宣旨を下さるその時神人白杖を持つてかの聖が項を白げて一条の大路より南へ追つ越してけり神は 非礼を受け給はずと申すにこの大納言非分の大将を祈り申されければにやかかる不思議も出で来にけ りその比の叙位除目と申すは院内の御計らひにもあらず摂政関白の御成敗にも及ばずただ一向平家の ままにてありければ徳大寺花山院もなり給はず入道相国の嫡男小松殿右大将にておはしけるが左に移 りて次男宗盛中納言におはせしが数輩の上臈を超越して右に加はられけるこそ申すばかりもなかりし か中にも徳大寺殿は一の大納言にて華族英雄才覚雄長家嫡にてましましけるが加階越えられ給ひける こそ遺恨の次第なれ定めて御出家などもやあるらんずらんと人々囁き合はれけれども徳大寺殿は暫く 世のならんやうを見んとて大納言を辞して籠居とぞ聞えし新大納言成親卿の宣ひけるは徳大寺花山院 に越えられたらんはいかにせん平家の次男宗盛卿に越えられぬる遺恨の次第なれいかにもして平家を 滅ぼして本望を遂げんと宣ひけるこそ恐ろしけれ父卿はこの齢では僅か中納言までこそ至られしかそ の末子にて位正二位官大納言に上がり大国数多賜つて子息所従朝恩に誇れり何の不足にありてかかか る心付かれけんこれ偏に天魔の所為とぞ見えし平治にも越後中将とて信頼卿に同心の間既に誅せらる べかりしを小松殿やうやうに申して首を継ぎ給へり然るにその恩を忘れて外人もなき所に兵具を調へ 軍兵を語らひ置き朝夕はただ軍合戦の営みの外はまた他事なしとぞ見えたりける東山鹿谷といふ所は 後は三井寺に続いてゆゆしき城郭にてぞありける俊寛僧都の山庄ありかれに常は寄り合ひ寄り合ひ平 家滅ぼすべき謀をぞ廻らしけるある時法皇も御幸成る故少納言入道信西が子息浄憲法印御供仕らるそ の夜の酒宴にこの由を仰せ合はせられたりければ法印あなあさまし人数多承り候ひぬ只今洩れ聞えて 天下の大事に及び候ひなんずと申されければ新大納言気色変はりてさつと立たれけるが御前に候ひけ る瓶子を狩衣の袖に懸けて引き倒されたりけるを法皇叡覧ありてあれはいかにと仰せければ大納言立 ち返りてへいじ倒れ候ひぬと申されける法皇も笑壺に入らせおはしまして者共参りて猿楽仕れと仰せ ければ平判官康頼つと参りてあああまりにへいじの多う候ふにもて酔ひて候ふと申す俊寛僧都さてそ れをいかが仕るべきと申しければ西光法師ただ首を取るには如かじとて瓶子の首を取つてぞ入りにけ る法印あまりのあさましさにつやつや物も申されず返す返すも恐しかりし事共なり与力の輩誰々ぞ近 江中将入道蓮浄俗名成正法勝寺執行俊寛僧都山城守基兼式部大輔雅綱平判官康頼宗判官信房新平判官 資行武士には多田蔵人行綱を始めとして北面の者共多く与力してけり